蒼天已死 黄天當立(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし)――太平道の蜂起
張角
心霊治療による教団の拡大と聞くと、現代人の感覚では、胡散臭さを感じざるを得ないところですが、イエス・キリストや張角が生まれたような時代では、そうでもありません。
しかも、彼を教祖とする太平道には『社(土地神への祭儀)』や『祖霊』を中心とする従来の民間信仰にはない新しさがありました。
それは、病気治療の前に行われた『罪の告白』によく表れています。
当時の中国人は、自分たちの土地神や祖先を信仰の対象としていたため、自分たちの信仰エリア以上に人が繋がることはありませんでした。
一方、『罪の告白』となると、地縁・血縁を超えた人間の生き方や普遍的な倫理観を前提として『魂の救済』をはかることになります。
このような思想は、太平道だけでなく、キリスト教が拡大した要因にも繋がるでしょう。
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蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
「蒼天すでに死す~」のスローガンは五行思想に基づているともいわれています。
乱を起こした太平道は、目印として黄色い頭巾(黄巾)を身につけていたので、土徳を主張していたことが察せられます。
一方、当時の漢王朝は火徳を標榜〈注3〉していたので、太平道は、五行相生説に基づき「火徳を受け継ぐ土徳」を意識していたと思われます。
ただ、火徳の色は『赤』であり、『蒼/青(緑)』ではありません――『青(緑)』は木徳の色となります。
それでは、なぜ太平道は『蒼天=漢王朝』という解釈をしたのでしょうか。
『蒼天」の意味には『青空・春の空・天帝(天の造物主)』などがあるそうです。
他に『天命』という意味もあるそうですが、ブログ主としては、直接的にそれを示した辞書や辞書サイトを確認できませんでした。
ただ、民衆にとっての『天』が漢王朝の朝廷を指している可能性は充分にあり得るでしょう。
太平道における末端の信徒は、陰陽五行説を知らない者たちも多かったでしょう。
故に「蒼天すでに死す~」のスローガンには、五行思想的な法則を絡めなかったのかもしれません。
𒉡画像引用 もっと知りたい三国志
『その5』では、いよいよ具体的に『太平道』と『黄巾の乱』について取りあげることになります。
小説『三国志演義』』においては、主人公である劉備・関羽・張飛が大乱の中で華々しく活躍しますが、史実における『黄巾の乱』は、どのような発生と展開を見せたのでしょうか。
深掘りすると長い話になるのですが、今回はその概要を述べるに留めたいと思います。
参考文献である『後漢書(皇甫嵩伝)/※引用:三国志(徳間書店)より』には、次のようなことが書かれていました。
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以前から『大賢良師(だいけんりょうし/たいけんりょうし)』と自称した鉅鹿郡の張角(ちょうかく)は、黄帝・老子の神霊道を信奉し、多くの弟子を集めていた。
その伝道法は、まず信者をひざまずかせ、深い拝礼の後に自分の犯した過ちを告白させる。
それから『呪い札(まじないふだ)』と『霊水(れいすい)』を飲ませ、呪文を唱えて、病気を治すのである。
不思議にも病人がよく治るので、 人びとは次々にこの教えに帰依した。
そこで張角は、8人の高弟を各地に派遣し、この『善の道』を天下に広めた。
信徒から信徒へと、 この教えに惑わされるものが急速に増え、十数年の間に、信徒の数は数十万に膨れあがった。
その組織は全国各地を網の目のように結び、特に『青洲(せいしゅう)』『徐州(じょしゅう)』『幽州(ゆうしゅう)』『冀州(きしゅう)』『荊州(けいしゅう)』『揚州(ようしゅう)』『兗州(えんしゅう)』『豫州(よしゅう)』という八州の民衆は、そのほとんどが入信する有様だった。
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『その1』でも簡単に触れましたが、罪の告白・霊水・病気治療・高弟たちの布教による信者の拡大――これだけピックアップすると、教祖の張角と太平道の思想は、イエス・キリストと初期のキリスト教を彷彿とさせるもの〈注1〉があります。
もし、太平道が漢王朝の打倒に成功し、易姓革命を成し遂げていたら、太平道が東アジアを代表する――西洋におけるキリスト教的な規模の――大宗教(?)になっていたかもしれません。
(イエスやその他の神秘的宗教家と同じく)張角は神秘的能力を持った人物として見られ、急速に信者を増やしていきました。
そして、教団の規模が大きくなれば、組織化も必要となります。
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やがて張角は、教団組織として36の『方(ほう)』を置いた。
『方』とは将軍の称号に相当する。
『大方(だいほう)』になると1万人以上、『小方(しょうほう)』でも6・7000人の信徒が、それぞれの最高指導者である『方』の指揮下にはいった。
やがて信徒たちは、口から口へ、流言を飛ばしはじめた。
蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉
(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)
〈蒼天の命運は尽き、黄天の時代が来る。その時は甲子(きのえね)の年、天下は太平となる〉
そして、首都『洛陽(らくよう)』の官署や地方の役所の門という門に、白い土で『甲子』の2字を書きつけていった。
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「蒼天すでに死す~」のスローガンについては『その3(章:③迷信の流行)』でも少し触れましたが、『蒼天』は漢王朝、『黄天』は太平道が祖師と仰ぐ黄帝を象徴するといわれています。
甲子は干支の最初――十干の初めの『甲』と十二支の初めの『子』が合する年――に当たり、万物一新の時を示しますが、太平道を乱を起こした『中平元年(184年)』は、ちょうどその年でした。
組織を整えた太平道が官署に甲子と書きつけたのは、蜂起への暗号とあると同時に襲撃目標を明示したと思われます。
蜂起に先立ち、張角は腹心である大方『馬元義(ばげんぎ)』を洛陽に送り込んでいました。
馬元義は荊州・揚州の信徒数万人に連絡し、『鄴(ぎょう)』で兵を挙げる手筈を整えていたのです。
そのうえで、馬元義はしばしば洛陽に行って、中常侍の『封諝(ふうしょ)』や『徐奉(じょほう)』などを味方に引き入れ、中平元年(184年)3月5日に洛陽の内と外から蜂起する取り決めを結びました。
しかし、蜂起の前にこの計画が漏れてしまいました。
張角の弟子の『唐周(とうしゅう)』という男が、上書によって密告したからです。
それから馬元義はただちに捕えられて、洛陽の街中にて『車裂きの刑』に処されました。
乱の企てを知って仰天したのか、時の皇帝である『霊帝(れいてい)』は、自ら朝廷に非常警戒を命令〈注2〉しました。
そして、宮中の宦官・官吏・衛兵・市民に至るまで張角の教えに従う者たちが調べられ、容疑者1000人余りが処刑されました。
つまり、太平道の信者は貧民ばかりではなく、当時の権力者でもあった宦官や貴族にも及んでいたことになります。
当然ながら、計画の首謀者である張角に対しても追捕が命じられました。
一方、張角らは陰謀が露見したことを知って、不眠不休で馬を走らせ、各地の『方』に一斉蜂起を命じました。
予定より1ヶ月早い蜂起となりましたが、これにより、後漢王朝を揺るがすことになる『黄巾の乱』が始まったのです。
【注釈 1~3】
■注1 イエス・キリストと初期のキリスト教を彷彿とさせるもの
キリスト教では『懺悔と告解』『洗礼(水を使う儀式)』『イエスの病気治療(イエスの奇跡の1つ)』『イエスの弟子たちによる布教』などの儀礼や伝説があるが、これらは張角を教祖とする太平道にも共通する要素である。
あるいは、新しい宗教が急速に拡大するパターンというのは、ある程度決まっているのかもしれない。
■注2 『霊帝(れいてい)』は、自ら朝廷に非常警戒態勢を命令
霊帝は、唐周の密告書を三公と警視総監に示して取り締まりを命令すると共に、直接、御苑係(宦官)の『周斌(しゅうひん)』に非常警戒を指示した。
■注3 当時の漢王朝は火徳を標榜
漢王朝を司る『徳』は、王朝の創始から常に一定していたわけではない。
漢(前漢)は建国当初、秦の正統性を認めず、周の火徳に勝った水徳を称したという。
それが『武帝(第7代皇帝)』の頃に「秦も正統な王朝である」という考え方が広がったので、秦を水徳、漢の土徳の王朝として改めたとか。
その前漢が『王莽(おうもう)/字:巨君(きょくん)』に簒奪されて『新(しん)』が建国されると、王莽は自らを正当化するため、「新は徳を失った漢から天下を譲られたのであって、奪ったのではない」と主張した。
すると、それまで相克説によって定義されていた王朝交代が、相生説によって語られるようになった。
これによって各王朝を司る徳が改められ、夏は金徳、殷は水徳、周は木徳、漢は火徳、そして新は土徳とされるようになった(再び秦は正統な王朝から外されることになった)。
※それ以前の相生説では、夏は木徳、殷は金徳、周は火徳、漢は土徳だった。
その新も短命で終わり、新滅亡後の混乱を制した光武帝によって漢(後漢)が再興されることになった。
光武帝は、相生による王朝交代説を継承して火徳を称したという。
★参考サイト 黄巾賊が掲げたスローガンと五行思想(五行説)の謎
朝廷の動き
霊帝(れいてい)
霊帝は後漢の第12代皇帝であり、本名(姓・諱)は『劉宏(りゅうこう)』です。
即位する前の彼は、皇族の血縁であるにもかかわらず、貧困に喘ぐ地方の貧乏貴族だったそうです。
そんな彼が皇帝に成れたのは、族父に当たる先帝の『桓帝(かんてい)/劉志(りゅうし)』には男子がいなかったことでした。
桓帝と同じく河間王家出身だった劉宏は、桓帝の皇后の『竇妙(とうみょう)』、大将軍『竇武(とうぶ)字:游平(ゆうへい)』、太尉(後に太傅)『陳蕃(ちんはん)/字:仲挙(ちゅうきょ)』らにより、建寧元年(168年)に皇帝として擁立されした。
三国志の小説や漫画を読んだことがある人は、霊帝は『暗愚な皇帝』として描かれたことを憶えているかもしれません。
後漢王朝は、宦官と外戚の権力闘争による害で衰退しましたが、霊帝の治世において宦官の優位が決定的になったといわれています。
また、霊帝は『売官・売爵』によって私財を蓄え、賄賂がまかり通る悪政を行ったとされています。
これによって官職を得た者たちが苛斂誅求を行ったので、民は疲弊し、治安も悪化したとか。
そんな霊帝ですが、近年では彼を再評価しようとする動きもあるようです。
当時の後漢の朝廷には、王宮を警備する近衛兵はいても、大規模な常備軍はありませんでした。
そこで霊帝は、皇帝直属の常備軍の創設を構想したといわれているのです。
この構想が形に成ったのが、188年に設置された皇帝直属の部隊である『西園八校尉(さいえんはつこうい)〈注6〉』だったとか。
その指揮官の中には、若き『曹操(そうそう)』や『袁紹(えんしょう)』、それに『淳于瓊(じゅんうけい)』〈注7〉もいました。
霊帝が売官を行っていたのは、この近衛軍編成の財源にするためだったとか。
つまり、霊帝は(手段を選ばない?)財政再建や常備軍の創設によって皇帝の権威を復活させようとした――ということのようですが、民政を疎かにしてしまった以上、彼の治世が悪政といわれても仕方がないといえるでしょう。
𒉡画像引用 Wikipedia
太平道が乱を引き起こせるほどの規模に拡大するまで、後漢の朝廷は何をしていたのでしょうか。
後漢の中枢にいた者たちは、無能か怠惰な人間ばかりだったのでしょうか。
『後漢書(楊賜伝)』には、次のようなことが書かれていました。
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黄巾の首領である張角らが、呪術を用い『大賢(良師)』と称して民衆をたぶらかしはじめると、天下の者が皆、一家を挙げて帰依する動きが各地にて起こった。
この成行きに危惧を抱いたのが司徒の『楊賜(ようし)/字:伯献(はくけん)』である。
彼は属官の『劉陶(りゅうとう)/字:子奇(しき)』を呼んで言った。
「張角らは恩赦のおかげで自由の身〈注4〉になったというのに、一向に悔い改めようとせず、ますますのさばっている。なんとかせねばならんが、急に逮捕令を全国に発したのでは、かえって混乱を引きおこして一大事になりかねん。今しばらくは、各地の刺史・太守たちに言い含めて、奴らの中から流民を選び分けて故郷に送りかえしてやり、張角一味を孤立させることにしよう。 それから首魁を料理すれば、労せずして落着すると思うのだが」
「仰せのとおり、これこそ[孫子の戦わずして人の兵を屈する〈注5〉] という深謀と申せましょう」
楊腸はさっそく自身の意見を上書したが、その矢先にたまたま司徒を辞任することになったため、上書は宮中の係のもとに留め置かれたままになってしまった。
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記録を読み限り、後漢末期の高官たちにも、太平道の動きを注視していた者たちはいたようです。
しかし、楊腸の意見が霊帝に届くことはありませんでした。
楊腸の辞任は運が悪かったというよりは、(太平道と繋がっていた?)宦官に阻まれたようです。
つまり、この時点で太平道の影響力は朝廷にまで浸透していたといえるでしょう。
楊腸の件から数年度、今度は彼の部下だった劉陶が動きました。
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劉陶が太平道の件について供奉(ぐぶ)司令の『楽松(がくしょう)』、建議官の『袁貢(えんこう)』と連名で上書を奉った。
「聖王は天下の耳目をもって視聴する、それゆえ見聞に洩れるものはないと申します。すでに上聞に達しているとは存じますが、 張角の流れを汲む者は、今や無視できぬ勢力になっております。先に司徒の楊腸は、各地の刺史・太守に対して[流民どもを故郷に送りかえせ]との詔勅がくだされることを奏請しましたが、たまたま辞任することになりました。以来、張角の逮捕は棚上げされたままになっております。 各地の風聞によれば、 張角らは、密かに都に潜入して朝政を奪おうと狙っており、人にはわからぬ符牒で、互いに呼び交わしているということです。しかるに、各地方長官らは、ことさらに知らぬふりを装い、ひそひそと囁き合うばかりで、公式の報告を出そうとする者がいません。今こそ明詔をくだして張角らを追捕することを命じ、捕えた者には封地を恩賞として与え、回避する者は同罪として罰すべきであります」
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楊腸の危惧から数年度、すでに事態は深刻になっていました――地方の官吏たちが不穏な宗教結社の取り締まりを怠っているのですから。あるいは、すでに太平道と通じた者たちがいたとしても、おかしくはありません。
しかし、劉陶の上書を読んだ霊帝は――
「全く関心を示さなかった」
――とのことでした。
有能な忠臣たちの意見も、採用されなくては意味がありません。
こうして、後漢は崩壊への道を着実に歩んでいくことになりました。
【注釈 4~7】
■注4 張角らは恩赦のおかげで自由の身
張角の過去の経歴は不明なので、どのような罪を犯し、恩赦を受けたのかはわからない。
ただ、彼の活動が活発になるのは『第2次党錮の禁(169年)』の頃からである。
太平道が蜂起すると、朝廷は慌てて『党錮の禁』を解除したが、その際に「張角を除く」としていることを考えると、おそらく、彼は清流派知識人(宦官勢力に批判的な士大夫・党人)として追放された者の1人だった可能性が高い。
『黄巾の乱』が、中国史における農民反乱において、初めて明確に現王朝打倒をスローガンに掲げ、なおかつ緊密な組織活動を繰り広げたのは、(清流派としての?)張角に経歴に関係があるのかもしれない。
高い志を持ちながらも追放された知識人が、新興宗教の教祖として民衆を扇動し、革命を起こそうとした――ということであれば、非常に興味深いことである。
少なくとも、張角は当時としてはかなりの教養人であり、オカルト的な儀式で民衆を騙して搾取するだけのカルト教祖ではなかったようだ。
■注5 孫子の戦わずして人の兵を屈する
兵法書『孫子』の謀攻篇(第3篇)――「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」――に由来する言葉。
■注6 西園八校尉(さいえんはつこうい)
西園八校尉に関する具体的な軍編成規模は解明されていないが、1万人規模相当であったのではないかと考察されている。
この近衛軍の編成に必要な経費負担が後漢の国庫を逼迫させたが、のちに曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹としたので、その構想は適切だったといわれている。
魏以降の歴代中国王朝でもこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていった。
霊帝が売官を行ったのは、近衛軍編成のための費用に充足させるためではなかったか――とも言われている。
実際には、創設途上で霊帝が死去したため後漢での完成を見ることなく、曹操の手で実現されることになった。
■注7 『曹操(そうそう)』や『袁紹(えんしょう)』、それに『淳于瓊(じゅんうけい)』
西園八校尉の同僚だったこの3人は、後に中原の覇権をかけた『官渡の戦い(かんとのたたかい)』にて対峙することとなった。
※ちなみに、若い頃の『曹操(そうそう)/字:孟徳(もうとく)』と『袁紹(えんしょう)/字:本初(ほんしょ)』は、友人関係(不良仲間)だったといわれている。
『淳于瓊(じゅんうけい)/字:仲簡(ちゅうかん)』は袁紹配下の武将となった。
『官渡の戦い』では、彼は兵糧輸送の任務を担当し、部下と共に『烏巣(うそう)/(現在の河南省新郷市延津県)』に駐屯していた。
『官渡の戦い』の終盤において、曹操は烏巣を急襲――淳于瓊らを討ち取り、袁紹軍の兵糧を焼き払った。
これが決定打により、曹操は袁紹に勝利して中原を制覇した。
乱の拡大
何進
『何進(かしん)/字:遂高(すいこう)』は、『その4(⑤麻薬の蔓延と現実逃避)』にて紹介した『何晏(かあん)/字:平叔(へいしゅく)』の祖父です。
何進の家系は羊の屠殺業(肉屋)であったと伝えられていますが、異母妹の『何氏(かし)』が宮中に入り、霊帝の后(貴人)として受けいれられたので、何進も取り立てられることになりました。
霊帝の寵愛を受けた何氏は最終的に皇后〈注8〉となり、それに合わせて何進もとんとん拍子で出世していきました。
『黄巾の乱』が勃発すると、何進は大将軍に任命され、乱の鎮圧に当たりました。
霊帝が崩御すると、朝廷では権力争いが過熱しました。
霊帝の後に皇帝として即位したのは、何皇后が生んだ『劉弁(少帝)』でしたが、宮中では権力を握っていた宦官たち(十常侍)を中心に不満が募っていました。
そんな時に、何進は不用心に宮中に参内したところを、宦官たちが率いた兵によって襲撃され、殺害されてしまいました。
小説や漫画などでは、妹のお陰で出世しただけの無能な人物のように描かれがちな何進ですが、史実を見る限り、政治や軍事において失策を犯したという記録は見当たりません。
それどころか、何進は大将軍になった後、洛陽に潜入して調略に奔走していた馬元義を捕らえるという功績を挙げています。
また、彼のもとには名門出身の有力者たちが集いました――その代表が袁紹です。
そういう意味では、実際の何進は(小説で描かれるよりも)ずっと有能で人望のある人物だったのかもしれません。
𒉡画像引用 Wikipedia
次に『黄巾の乱』が、どのように拡大したのかについて述べたいと思います。
後漢書の『霊帝紀』と『皇甫嵩伝』には、以下の状況が記されていました。
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中平元年(184年)2月、『黄巾の乱』が勃発、『安平(あんぺい)』と『甘陵(かんりょう)』にて、住民がそれぞれ安平王・甘陵王を捕えて、黄巾軍に呼応した。
3月の戊申の日、朝廷では、首都圏長官の『何進(かしん)/字:遂高(すいこう)』を大将軍に任命し、近衛軍を率いて洛陽郊外の都亭に駐屯させ、さらに周辺の『8つの関所=洛陽八関(らくようはっかん)』――函谷(かんこく)・広成(こうせい)・伊闕(いけつ)・大谷(だいこく)・轘轅(かんえん) ・旋門(せんもん)・小平津(しょうへいしん)・孟津(もうしん)――に警備司令官を派遣して固めさせた。
急遽、群臣会議が開かれると、北地太守(ほくちたいしゅ)の『皇甫嵩(こうほすう)/字:義真(ぎしん)』は、以下のことを主張した。
●『党錮の禁』を解除すること。
●皇帝私蔵の銭と離宮厩舎の馬を放出して軍士に分け与えること。
霊帝も皇甫嵩の提案に同意したので、天下の精兵を動員し、広く人材を求めて指揮官を選ぶことになった。
4日後、『党錮の禁』によって官界追放処分を受けた全国の『清流派』たちに大赦令を下し、流刑になっていた者を故郷に帰すことにしたが、張角だけはその適用から外した。
また、三公九卿に詔勅を下し、 馬と武具を供出すること、諸将の子弟・部下・支配下の庶民の中から戦闘に習熟している者を推挙して、任用係まで出頭させることを命じた。
討伐軍の指揮官としては、『盧植(ろしょく)/字:子幹(しかん)』を近衛北軍司令に任命して張角に当たらせ、皇甫嵩を近衛左軍司令に、『朱儁(しゅしゅん)/字:公偉(こうい)』を近衛右軍司令にそれぞれ任命して潁川(えいせん)の黄巾軍に当たらせた。
それでも、都には凶報があいついでもたらされた。
3月の庚子の日、南陽郡守の『褚貢(ちょこう)』が黄巾軍の『張曼成(ちょうまんせい)』に殺された。
4月に入ると、朱儁の軍が黄巾軍の『波才(はさい)』に敗れ、汝南太守『趙謙(ちょうけん)/字:彦信(げんしん)』が、邵陵(しょうりょう)で黄巾軍に敗れた。
また、幽州刺史『郭勲(かくくん)』、広陽太守『劉衛(りゅうえい )』が黄巾軍に殺された。
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勃発当初の乱の勢いを感じさせる記録ですね。
皇甫嵩の提案を受け、霊帝は大赦令を下しましたが、これを決定する直接的なきっかけとなったのは、正義派官僚といわれる宦官『呂強(りょきょう)/字:漢盛(かんせい)』の進言だったとか。
清流派(宦官勢力に批判的な士大夫・党人)と呼ばれる知識人の多くは、地方の中小豪族の出身でした。
そして、霊帝紀には、大赦令が下された時、張角だけはその対象から外されたと書かれていました。
つまり、教祖になる前の張角は、清流派の士大夫(またはその関係者)だった可能性があります。
故に、朝廷の要人たちは、時の朝廷に不満を抱く清流派と黄巾軍が手を結ぶような事態を危険視したと思われます。
これを許してしまうと、後漢王朝の権力基盤が崩壊する危険があったからです。
後漢時代には、以前にも乱が複数ありましたが、『黄巾の乱』は、これまでにない強さと勢いがありました。
後漢王朝始まって以来の危機を目前にし、支配階級が一丸となって当たろうとした政策が、この大赦令だったのです。
予定よりも早い蜂起だったものの、当初は順調に勢力に広げたかに見えた黄巾軍でしたが、その後、彼らはどのような運命を辿ったのでしょうか…………。
ということで今回はここまでとなります。
次回は、このシリーズの山場である黄巾軍と朝廷の戦いについて述べたいと思います。
執筆完了までお待ちを!
【注釈 8】
■注8 霊帝の寵愛を受けた何氏は最終的に皇后
霊帝の最初の皇后は『宋皇后(宗氏)』であり、霊帝の先代である桓帝の弟――勃海王『劉悝(りゅうかい)』の后(宋氏)と同族だった。
その劉悝が、宦官の『王甫(おうほ)』の策略により一族皆殺しになった後、宋皇后も讒言を受け、無実の罪を着せられたうえで廃位および『暴室(女官を幽閉する部屋)』送りにされた。
そして、宋皇后の三族は皆殺しの刑に処せられ、彼女もほどなくして急死したという。
このような経緯があり、何氏は(宗氏の後に)霊帝の皇后となった。
参考・引用
■参考文献
●三国志〈1〉転形期の軌跡 丸山松幸、中村原 訳 松枝茂夫、立間祥助 監修 徳間書店
●正史 三国志 陳寿、裴松之 著 ちくま学芸文庫
●後漢書 本紀 范曄 著 吉川忠夫 訳 岩波書店
●世説新語 劉義慶 著 井波律子 翻訳 東洋文庫
●「三国志」の迷宮 山口久和 著 文藝春秋(文春新書)
●千年王国運動としての黄巾の乱 三石善吉 著
■参考サイト
●Wikipedia
●WIKIBOOKS
●Wikiwand
●Weblio辞書
●ニコニコ大百科
●ピクシブ百科事典
●コトバンク
●goo辞書
●もっと知りたい! 三国志
●後漢人物名録
●Bai du 百科