ニンギルス / ニヌルタについて
シュメール神話の戦いの神ニンギルス(NIN-ĜIR2-SU / 楔形文字:𒀭𒎏𒄈𒋢)についての説明ページです。
シュメール神話の後継であるアッカド神話ではニヌルタまたはニンウルタ(NIN.URTA〈NIN-IB〉 / 楔形文字:𒀭𒎏𒅁)と呼ばれ、こちらの神名の方が知られていることでしょう。
戦争・農耕の神として有名ですが、実は『書記』の神でもあります。
メソポタミア神話で書記の神と言えばナブーが有名ですが、ニンギルスはニサバ女神と並んでそれに先立つ書記の神だったのです。
様々な記録をもとに様々な伝承を記すことになるブログですが、それを始めるに当たり、まずはこの『最古の書記の神』について知っていただきたいと思います。
夢で啓示を受け、ニンギルスのために神殿を立てたグデア王ではないですが、このブログを書記の神でもあるニンギルスに捧げる『情報世界のジッグラト』——つまり『聖塔』として、少しずつ『建設』していきたいと思います。
もっとも、公正・公平な内なる『歴史家魂』故にこの神にとっても都合の悪いことをたくさん書き込むかもしれませんが…………(というか多分書く)。
※このページは、概してニンギルスについて詳細に書かれた英語版Wikipediaの翻訳に基づいていますが、この他にも自分の考察なども付け加えたいと思います。
多頭の怪物と戦う戦士
上記の粘土板(?)は、ニンギルスを含む戦士たちが、怪物と戦う様子を描いたといわれています。
この怪物は、メソポタミア神話に登場する多頭の蛇ムシュマッヘの原型と思われます。
●画像引用 Mesopotamian Artifacts & Texts
メソポタミアの神であるニンギルスまたはニヌルタは、農耕、治療(医療)、狩猟、法、書記、そして戦争を司る神であり、特に戦争の神としてはシュメール時代の早期から崇拝されていました。
初期の記録としては、ニンギルスは農耕と治療の権能があり、人間を病気と悪魔の力から解放する神として崇拝されていたようです。
メソポタミアが軍国化するにつれて彼は『戦士の神』になったものの、早期にあった農耕神として属性は保持されていました。
ニンギルスは主神エンリルの息子とみなされており、 シュメールにおけるこの神の主な信仰の中心地は、都市国家ニップルに建てられたエシュメシャ神殿でした。
シュメール時代、ニンギルスはニンギルスはラガシュの王グデア(在位:BC2144-2124)に特に敬われ、彼はその地にてニンギルスの神殿を再建しました。
上記のように早期から崇拝されてきたニンギルスでしたが、西が始まるころにはすでに信仰が途絶えていました。
この神は如何なるの運命を辿ったのか、以下に記述したいと思います。
概要
戦勝後に高官と会うアッシュールナツィルパル2世(中央)
●画像引用 Wikipedia
ニンギルス(ニヌルタ)が信仰されていた時代の後期において、この神は畏怖すべき戦士として尊重されていました。
アッシリア王アッシュールナツィルパル2世(在位:BC883-859)は都市カルフ(ニムルド)において彼のために大神殿を建設し、それ以来、この神殿は彼の最も重要な信仰の中心地とななりました。
ですがアッシリア帝国の没落後、ニヌルタの彫像は破壊され、彼の神殿は見捨てられました。
何故なら、この神はアッシリアの支配体制と余りに近しく関連付けられていたからである。
アッシリアに征服された多くの民族は、その支配を専制的かつ圧政的のように見なしていたのです。
アサグと言われている彫像
●画像引用 INTERENET ARCHIVE
ニヌルタと双頭の鷲
●画像引用 locuras y verdades que duelen
叙事詩『ルガル・エ』の中で、ニヌルタは喋る鎚鉾『シャルウル(楔型文字:𒊹𒃡)』を振るって悪魔アサグ(楔形文字:𒀉𒉺)を殺し、石を使ってティグリス・ユーフラテス川を灌漑しました。
時にはシュメールのゲオルギカ(農耕詩)として言及されたこの詩において、ニヌルタは農夫に農業についての助言を与えています。
アッカド神話では、アンズー鳥が父神のエンリルから『天命の書板』を盗んだ後、ニヌルタはこの神鳥と戦って勝利しました。
この他、ニヌルタは多くの神話で言及されていますが、保存状態が余りよくないある神話において、彼は『殺された英雄たち?』とした知られた戦士たちの集団を殺しました。
このようなニヌルタの主要な象徴は、『とまり木にとまる鳥』と『鋤』でした。
他に『双頭の鷲』もそうではないかといわれているようです。
ニスロクのレリーフ
ニヌルタは、旧約聖書の著者に『力強き狩人ニムロド』の姿を浮かべさせるインスピレーションを与えたのかもしれません。
ニムロドは創世記の書のカルフ(都市名)に関連して言及されました。また、彼は列王記第2において、ニスロクの名前としても言及された可能性があります。
アッシリアのカルフに建てられていたニヌルタ神殿には、鷲の頭をした姿をした有翼の石の浮き彫りがありますが、それは一般的にアッシリアの神ニスロクと同一視される傾向があるとか。
上記の認識は間違ってはいましたが、19世紀の時代には、彼らはその時代の幻想文学の作品に登場したそうです。
崇拝
ニヌルタは早くもBC3000年紀の中期にシュメール人に崇拝されていました。
この神は、シュメールの宗教において存在が証明された最古の神格の1柱であもあります。
ニヌルタの主要な信仰の中心地は、シュメールの都市国家ニップルにあるエシュメシャ神殿(ニヌルタ神殿)であり、そこでこの神は農耕の神及び主神エンリルの息子として崇拝されました。
シュメールの都市国家ギルスで崇拝されたニンギルス神は、起源的にニヌルタと異なる神格だった可能性がありますが、両神は常に同一視されていました。
アッシリア学者のジェレミー・ブラック(Jeremy Black)とアンソニー・グリーン(Anthony Green)によると、両神の個性は緊密に絡み合っているそうです。
ラガシュのグデア王(在位:BC2144-2124)はニンギルスに熱く信仰しました。
BC2125の年代を示す文字が刻まれたグデアの円柱は、グデアが夢で啓示を受け、ラガシュにてニンギルスの神殿を建設したことについて記録しています。
グデアの円柱には、シュメール語で書かれた最古の記録があります。
グデアの息子のウル・ニンギルスは、ニンギルスへの畏敬からこの神の名前を自身の名前の一部として取り入れました。
このようにシュメール時代はニンギルスの崇拝が盛んでしたが、都市国家ギルスの重要性が衰退するにつれて、ニンギルスは次第にニヌルタとして認識されるようになりました。
アッシリアの首都がカルフから遷都された後、パンテオンにおけるニヌルタの地位が低下し始めました。
サルゴン2世は、ニヌルタ以上に書記の神ナブーを崇拝しあした。ただ、それでも依然としてニヌルタは重要な神とされました。
ニヌルタは起源的に単独で農耕神として崇拝されていましたが、 後の時代、メソポタミアがより都市国家化と軍国化するにつれて、彼は農耕神というよりも、次第に戦士の神として見られるようになりました。
彼は主として戦争の側面から特徴を述べられるようになりましたが、その一方でこの神は治療者と守護者としても認識され続け、一般的に悪魔や病気、またはその他の脅威を防ぐ呪文において祈願されました。
後期の時代では、獰猛な戦士としてのニヌルタの名声は、アッシリア人に間で広く人気を集めた。
紀元前2千年紀の後期、アッシリア王はしばしばニヌルタの神名の含んでいました。
例えば次のような名前です。
●トゥクルティ・ニヌルタ(信頼できる神たるニヌルタ)
●ニヌルタ・アパル・エクル(ニヌルタはエクル〈エンリルの神殿〉の継承者)
●ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュール(ニヌルタはアッシュールが信頼した神である)
トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:BC1243-1207)は、1つの碑文を布告し、そこには「彼が狩りをしたのは、〈私を愛するニヌルタ神の啓示〉である」と書いてありました。
同様に、アダド・ニラリ2世(在位:BC911-891)は、彼の統治の援助者としてニヌルタとアッシュールを求めました。
敵の撃破を宣伝しつつ、自らの統治権を正当化するためです。
紀元前9世紀、アッシュールナツィルパル2世(在位:BC883-859)は、アッシリア帝国の首都をカルフに遷都しましたが、そこで彼が最初に建設した神殿は、ニヌルタに捧げられたものでした。
その神殿の壁は石に刻まれた浮彫で飾られ、それにはアンズー鳥を殺しニンギルスの雄姿が描かれたものもありました。
アッシュールナツィルパル2世の息子であるシャルマネセル3世(在位:BC859-824)は、カルフにあるニヌルタのジッグラトを完成させ、この神に自分自身の石の浮彫を捧げました。
この彫刻において、シャルマネセル3世は己の軍事的成果の誇示し、全ての勝利をニヌルタに帰して、この神の支援がなければ、それらはいずれも不可能だったと宣言する言葉を刻みました。
アダド・ニラリ3世(在位:BC811-783)が都市アッシュールにあるアッシュール神殿に新たな寄贈をした際、アッシュール神とニヌルタの両方の印章が納められました。
カルフ時代のアッシリアの石の浮彫は、アッシュール神を有翼円盤の姿で描きましたが、その下にはニヌルタの名前を添えました。
これは両者がほぼ等しい存在と見られていたことを示しています。
サルゴン2世と家臣の浮彫
●画像引用 Wikipedia
新アッシリア王国のサルゴン2世は、ニヌルタより書記の神であるナブーを信仰し、カルフから新たなる都『ドゥル・シャルキン』に遷都しました。
アッシリアの首都がカルフでなくなると、パンテオンにおけるニヌルタの重要性が以前より低くなりましたが。この神が依然として重要な神だったことは変わらなかったようです。
アッシリア王たちがカルフから遷都した後も、旧首都の住民は、ニヌルタを『カルフのニヌルタ』と呼び、崇拝を続けました。
この神の重要性を示す1例として、「誓約に違反した者はカルフに住んでいるニヌルタの膝の上に銀の2つのミナと金の1つのミナを置くことを要求された」と記録された法的文書が発見されています(※ミナは古代オリエントの重量の単位)。
この条項があったことを最後に判明しているのは、紀元前669年、エサルハドン王の治世(紀元前681年~669年)の最終年に遡ります。
カルフにあるニヌルタの神殿は、アッシリア帝国の終わりまで栄え、貧しい人々と貧困層を雇い入れました。
神殿の祭儀の主な担い手としては、アッシリアの僧侶である『シャング』と主要な歌手、彼らを支える料理人・執事・人夫などでした。
紀元前7世紀後半では、ナブーを祀るエジダ神殿の官吏と共に、ニヌルタ神殿の官吏が法的文書の署名を担当しました。
この理由としては、両神に『書記の神』という性質があったからだと思われます。
この2つの神殿は公式に『qēpu(アッシリア王に委任された信頼できる者:アッシリア王の代表)』という待遇を共有しました。
ニヌルタの図像(象徴)
ライオンに乗ったニヌルタ
図のライオンにはサソリのような尾があります。
メソポタミア神話には、サソリの尾を持つといわれた半人半馬の神『パビルサグ』がいますが、ニンギルス=ニヌルタはこの神とも同一視されました。
●画像引用 ANCIENT HISTORY
新アッシリアの有翼戦士
上記の画像はアッシュール神といわれていますが、アッシュール神とニヌルタは習合が進んでいたと思われるので、実質的にニヌルタの姿を描いたのかもしれません。
●画像引用 Wikipedia
美術において、ニヌルタは戦士として表現され、弓矢と『会話ができる棍棒――シャルウル』を手にしています。
この神は、時に翼を備えて直立し、攻撃の構えをしている姿で描かれました。
バビロニアの美術では、ニヌルタはライオンの体とサソリの尻尾を持った獣の背後に立っているか、あるにはそれに乗っている姿がよく見られます。
ニヌルタは、(遅くとも)紀元前2千年紀の中頃まで農耕と深く関連付けられ、その象徴となっていました。
カッシート朝時代(紀元前1600年~紀元前1155年)の『クドゥル(象徴とされた図像)』では、『鋤』がニンギルス(ニヌルタと習合した神)の象徴とされました。
新アッシリアの美術でも、『鋤』はニヌルタの象徴として描かれました。
他には『止まり木の鳥』が、新アッシリア時代のニヌルタの象徴になっています。
ある仮説では、有翼円盤は紀元前9世紀頃はニヌルタを象徴していましたが、後にそれはアッシュール神(アッシリアの国家神)とシャマシュ(太陽神)の象徴になったという話もあります。
この説は、初期に描かれた複数の有翼円盤の神像において、鳥の尾があることに基づいています。
ただ、ほとんどの学者はこの説を根拠のないものとして否定しました。
紀元前8世紀と7世紀の天文学者たちは、射手座とニヌルタ(またはパビルサグ)を同一視しました。
あるいは、アッカド語では『矢』を意味する『シュクードゥ(šukūdu)』と呼ばれた星――シリウスとニヌルタをよく同一視しました。
シリウスがひときわ輝くおおいぬ座は、『弓』を意味する『カシュトゥ(qaštu,)』と呼ばれており、その弓矢は後にニヌルタが運んでいると信じられるようになりました。
バビロニア時代、ニヌルタは土星と関連付けられました。
以下、工事中…………。
参考・引用
■参考文献
●古代メソポタミアの神々 集英社
●SUMERIAN LEXICON JOHN ALAN HALLORAN 編 Logogram Publishing
●参考サイト
●Wikipedia
●ANCIENT HISTORY